震災から15年。忘れてはいけない、ひとり、ひとり。

あの日の、1月17日午前5時46分から、もう15年がたったんだ。
そうは思えない、モノポールにとっても激動の日々であった。

あの日も、私は早朝の仕事でお店の180cmのまな板の前でサンドイッチを作っていた。
後ろには釜があり、釜の前には職人がいた。
釜に入れるパンに最後のトッピングや塗り玉をし、片方ではフライヤーで揚げ物をする。
南側の自動ドアーは何時も開くようにしてあるお店、東側の問屋さんが出入りするドアーの横で、
ミキサーに目をやり場板を前にパンを整経していたのは主人でした。

3人は「午前7時にはお店に商品が並ぶように」一心不乱にそれぞれの仕事をしていた。

<グラッ>、、<グラッグラ>、、<グラグラグラグラグラグラッ>と鳴り響いたトタンに私はフライヤーの油を見た。“火事にしたらあかん”その思いは3人とも同じだった。「ガスを切れ!」主人が怒鳴った。「ガス、、、キレテマス」と職人が答えた。
大阪ガスはその頃、自動で元栓が締まるようになっていたのだ。

その次に私は3階で寝ている息子達の所へ・・急いだ。
自動ドアーからでて表から螺旋階段を上がると2階の自宅のドアーにたどり着く・・でも私はその螺旋階段を見上げたトタン、地面に座り込んでしまった。3階建ての自宅兼店が揺れる、近くにある電柱が多くの電線を巻き込んで、右に左に揺れていた。そこへ主人が出てきた。「何をしてるんや!」と言う。「子供。3階みてー!」としゃがみこんだまま主人に言うのが精一杯だった。

その後、二段ベッドの下ベッドで寝ていた次男は上に寝ていた兄に「お兄ちゃん!ベッド動かすなや」と言っていたそうで、兄は「地震や!、悠志起きろ」と言っていたのを聞いた。
兄、高校1年生、弟中学1年生でした。

すぐに、大阪の母の家に電話をするがつながらず、、、暫くして電話がつながり、お互いがやきもきしていたのを聞いた。安否を確認するなり、仕事に戻り、通常通り店を開けた。
実家の様子は後で克明に知ったが、酒屋をしていた兄の倉庫の酒瓶や醤油瓶が大量に落ちて割れたらしい。玄関から風呂場に行く壁にもひびがはいった。

後で、近所の様子を見た。隣のIT関係の会社は3階まで前面がガラス張りだったがそれらが全て割れて落ちていた。瓦が飛んだ家もあり、冷蔵庫やみじや(食器棚)が倒れた家もあり、1軒1軒、事情は違っていた。

我がモノポールは私の作業場の真上には奥行き30cm位の棚が高い位置に3m位あり、その棚にはあらゆる調味料の瓶や缶がギュシリ並んでいた。だがその一つも落ちて来なかった。
2階の部屋も神棚のものやみじや(食器棚)の上の開きの天袋だけが開いていて、何個か食器が落ちていた位ですんだ。

1月16日は震災のドキュメンタリードラマを観ていた。
震災の時の「神戸新聞」の方達の<休刊するな!>の言葉の元、
厳しい神戸の現場を撮りながら
言葉が嗚咽となり、仕事に邁進する気持ちに迷いを持ち、仲間で言い争いながら、
正真正銘血を流しながら
「京都新聞」の援助を受けるため、紙面をレイアウトする人、カメラマン、パソコン操作する人が、
混雑を避ける為、真っ直ぐ行けば1時間半ほどで行ける道のりを京都の亀岡周りで5時間かけて京都新聞社にたどり着く。

朝刊には間にあわなかった、、

朝刊は既に電話で神戸から内容が伝えられ、京都新聞社の手で原版が出来ていた。

その日の夕刊から、神戸から電話で内容を送り京都で紙面を作り、原版をつくる。
原版を神戸に届け、それを神戸工場で新聞を刷る。

被災者は情報を待っていた。被災の状況が掴めた頃、神戸新聞は「復興への勇気」への踏み台となるべく新聞の内容を変えてゆく。

ーー私は、主人と見入っていた。3時間泣きながら見入ってしまったーーー

17日も観ていた。
震災の時、子供だった子が震災の日に「東公園」(阪神・淡路大震災から15年目を迎えるにあたり、亡くなられた方々の慰霊と鎮魂、そして震災から生まれた「きずな・支え合うこころ」を次世代に語り継いでいく)へ向かう。
若い男女、二人はフイな事で知り合う。二人は現代っ子でした。
終電車に乗り遅れた二人は三宮から御影まで歩いて神戸の夜の街を歩く。
少しづつ、話し出す「二人の震災での心の傷」。
その頃は震災の神戸から逃げていた二人、傷となり、忘れたいと思っていた<人との絆>をやはり<忘れる事は出来ない、忘れてはいけない>と気づく。
勇気をだして、亡くなった友人家族の、ただ一人、生き残り、ボロボロになっていたおじさんに会いにゆく。

もう一人の男の子は親父が「金儲けに走り、屋根修理を10倍の値段で請負、金儲けをする。その事で全ての彼の友人は離れてゆく。「俺の絆をズタズタにしやがって・・」彼の心の底は生活を抱えた親父への理解とそれを受け入れられず、神戸を後にする心情が<震災がなければ>、母親も家から出なかった。家族がバラバラにならなかった。彼も被災者であった。でも、もう一度父親が直した家で幸せに暮らす同級生を見る。
彼女は言う「仕方ないやん」---関西弁が心にしみる。ドキメンタリータッチで構成されていて、神戸の町を私も歩いているようだった。

あれから15年。モノポールはテントも代え、たくさんいた従業人もやめ、今やおじさんとおばさんの店になりました。
でもパンは25年のあいだに2度、値上げはありましたが、今も主人の作るパンの味は変わりません。

あの頃、幼かった子供が立派な大人になり、「懐かしい。おばちゃん、何時までもやっててや!」と言われるようになりました。

震災で釜の下敷きになり火に包まれて亡くなったパン屋さん。

建物の下敷きになり亡くなった方々。

非難場所で一人で亡くなって方々。

復興にがんばった方々。

全ての、ひとり・ひとりを忘れない。忘れてはいけない。

きれいに整備された神戸に昔の神戸の「面影」を探している私がいる。

今度、神戸へ行こう!
一緒に行きませんか?
トーアーロードが如何なっているか、
高架下の店が如何なっているか、
異人館が如何なっているか、
あの出始めた頃のブランドのアトリエが如何なっているか、
三ノ宮が如何なっているか見てみたい。

私は震災から神戸に行っていない。
バイクで走り、見てきた様子を長男から聞いただけでした。






数日前に、神戸で震災にあわれた方達がNPO震災ボランティアに入り、世界各国へボランティアへ行かれている。数年前の中国四川で起こった地震。世界の国々からボランティアが集まりましたが、今は日本の神戸のボランティアだけが残り、<足湯>をしながら手足をさすりながら、被災者により沿っている。

私は誇らしい。嬉しくて涙が出た。

「平和ボケ」と揶揄される若者が大人になり、被災者に寄り添っている。
彼らの優しさ・その優しさは「平和ボケ日本」だから、育ったのかもしれない・・と思った。

今は日本の震災から出来たボランティアは世界で注目されている・・・らしいのです。
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by yukiwaa | 2010-01-18 12:40 | 社会  山登りしんしん | Trackback | Comments(9)

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Commented by takoome at 2010-01-18 15:03
サワディ〜カ〜
あの時、奈良も大きく揺れました。あの地震。揺れる30分前に私は既に起きていた。
わたしの大事な大事な心の友の大きな犬が教えてくれた、いつも静かなその子が狂ったよぉに吠えたから、
別に備えていた訳ではないけれど、「おかしい!」って思いました。そしたら揺れた。大きな被害はなかったけれど、TVをつけたら大変な光景が広がった。旦那は現地へと飛び出して仕舞わはった。
6年前、こっちで起こった大地震、ここは揺れんかったけどよぉけ亡くなった。この時は息子と旦那が行きはった。
13歳にはきつかったみたいやけど、しっかり消化して今年、ここを出て行く。
世界で色んなことが起こるけど、それとは関係無しに私等の営みは変わらない。そして私等に何かがあっても世界の流れもかわらない。けど、何かあったときの対処が出来ればよしとする。その時13歳の息子が言いました。

Commented by aamui at 2010-01-18 17:36
私は始めての海外旅行出発の朝でした テレビでは一条の煙 その他の報道はなく たいしたこと仲って良かったと思いながら出発 ところがイタリアへ着いて 日に日に報道が大変なことに しかし日本人はおとなしく泣き喚いている人も無い とてもサイレンとな感じの国際ニュースが今でも何故だろうと思います 帰ってから本当に驚きました その後幾つもの地震がありましたが相変わらずなにも備えていないのです 京都もていへんでしたのね モノポールの歴史よませていただきました<(_ _)>
Commented by トランプ at 2010-01-18 21:10 x
こんばんわ。
モノポールの歴史にしみじみ!(感)

私も連絡の取れない方が何人もいましてその後の数日は大変な思いをしました。<親戚は皆、西宮に集中してますので>

今日、ハイチの地震に、学校帰り、大学前の郵便局で交通費に頂いた数万円全部募金してきました。
<このぐらいしか出来ないのですが。世界でも一番の貧困国なんですよね。>
Commented by antsuan at 2010-01-19 11:30
今日19日の日本放送協会のラジオで阪神淡路の被災地の復興は遅れていると解説者が言っていましたが、復興ってなんだろうと思ってしまいました。ただでさえ世界大不況の中で、震災前の経済活動ができることが本当に復興なのだろうかと。

ボランティア活動は活発になったものの、イザという備えはあの当時と全く変わっていないのでは無いでしょうか。初期出動のお粗末さはハイチで起きた大地震への対応にも現れていて、情けないの一言です。
Commented by yukiwaa at 2010-01-19 13:44
蛸さん!こんにちわ。
確かに、あの日は「変」でしたね。
近所の方が「西の空がやけに明るい」と言っていたのを思い出します。
あの日以来、関西の経済は疲弊しました。完全には元には戻らない現場で、頑張っている人間は頼もしい限りですね。

タイはたくさんの人が亡くなられたんですね。神戸も6400人以上亡くなりました。
この日を忘れては「関西人」と言えないという思いで書きました。
Commented by yukiwaa at 2010-01-19 13:50
aamuiさん!こんにちわ。
そうですね、私も息子達を学校へ行かせました。「先生が来てない」と言って帰ってきましたが、地震の大きさが衝撃的だったのは
「高速道路」の破壊でした。何時も実家に行く時に走っていた道路でした。

とてもサイレンとな感じの国際ニュースが今でも何故だろうと思います・・・・日本人の日本人たる所以ではないでしょうか?お葬式でも「泣き喚くのは恥」の文化です。私はこれは日本人として誇り高い
性格のものだと思っています。
最近は西洋化された日本人も多い中で、「日本人とは?」を掴む一つの「文化」だとも思いました。
Commented by yukiwaa at 2010-01-19 13:58
トランプさん!こんにちわ。
モノポールの歴史だなんて、、、たった25年、その内の15年が震災の後でした。これから3,4年後に夫婦二人の店になってゆくのですが、「人を使う」のはとても神経を使います。今はこの状況が良し・・だと思います。此処までくるには「苦しい日々」もありましたが、
私は「山の内一豊の嫁」の様に全てに備えて<準備>しておりました。
ハイチ・・・今日も新聞で「暴動」が・・と。支援物資を配れない・・と書いてありました。大変な国ですね。
トランプさんは「偉い!!」交通費を寄付ですか。

ハイチに限らず私達は「何か」しなければ、、、と思います。
Commented by yukiwaa at 2010-01-19 14:11
あんつぁん、こんにちわ。
震災前の経済活動・・・そんな事出切る訳がないですよ、亡くなった方も、もう戻らないように。

ボランティア活動は活発になったものの、イザという備えはあの当時と全く変わっていないのでは無いでしょうか。・・・それはおかしい見識ですね。その後の新潟での地震や色々な所での地震がありましたが、やはり、「被災されて亡くなった方」は断然少なくなりました。火事を食い止める事も出来、建物の崩壊も神戸地震よりは軽いもので終わっています。私達の知らないところで頑張っている方々がいるのではないでしょうか?

ボランティアは、人の心に添い、その人に生きる勇気を湧き出させるのも大事な仕事だと思います。病院で元気のない、未来のない患者さんにも当てはまる事ではないでしょうか?病院での「治療」だけでは、精神的な「治癒力」は大きなものでしょう。病院でたくさんの患者さんと向かい合っているあんつぁんなら分かるはずですよね。
不服と非難ばかりだけでは何も生まれない・・と私は思います。

若い子の「優しい、やる気」は宝物です。
Commented by yura-tami at 2010-01-25 23:07
yukiwaaさんの思い、正直胸に詰まりました
そして、みなさまのコメント、頭が下がります
経験した人たちのことばってすごいです
テレビ番組観ましたが、yukiwaaさんの思いには程遠い・・・
私も何かできればいいなと本当に思います